江戸四宿

江戸四宿(えどししゅく)(あるいは単に四宿とも)とは、江戸時代、五街道の整備とともに整備された、江戸(日本橋)に最も近い宿場町の事です。

街道は5街道ですが、千住宿は日光街道・奥州街道両街道共通の宿場のため「四宿」となります。

 

東海道…品川宿
甲州街道…内藤新宿
中山道…板橋宿
日光街道・奥州街道…千住宿

 

 

千住宿

千住宿は奥州街道・日光街道の宿場として文禄年間(三年)の千住大橋の架橋を手始めに整備され、慶長年間に継場村に指定されると宿場として発展しました。
他の三宿と違って全く新しいプランの下に建設され、その完成は元禄の始頃といわれます。
本宿五町、新宿三町(中町)、加宿二町(南千住)という構成で、他の宿場に比べて最大の長さと人口を誇っていました。
上野方からくる日光街道(寛永寺宮御通路)、浅草方からくる奥州街道(正式な日光街道は同一線路)を合わせ、北へ向けて出て行く日光(奥州)街道の本道とそれから宿の北部で水戸街道がわかれ(なぜか千住ではそこを追分と呼びません)さらに地方道の下妻街道を分岐させます。
このように多くの街道の集散点となっているのも千住宿の特徴です。

明治になると北千住と南千住の二駅が設置されました。
鉄道(当時の日本鉄道 今のJR)の駅が宿の中心に近いところに二駅もおかれたのもほかにありません。

その後の千住は駅とともに発展してきました。

品川宿

品川宿は東海道の初宿として目黒川(品川)川口の品川湊のところに設置されました。
古来湊としてにぎわっていた町が宿場〈古来の宿場は大井町〉も兼ねるようになりました。
旅籠の数も四宿中最大で、いろいろな歴史的出来事の舞台にもなりました。
北本宿三丁、南元宿四丁で構成されていましたが、やがて北側に歩行新宿三丁が加えられ完成した姿になりました。
北側の高輪には大木戸が設けられ南側鈴ヶ森の刑場は千住の小塚原刑場と対をなすものでした。

明治になると品川駅は宿のさらに来た〈高輪地区〉に設けられ、鉄道は山側に敷かれました。
やがて繁華街も北の駅前地区に移りましたが、京浜急行の北品川駅、新馬場駅をもよりの駅として、今日でも宿場の風情を残す商店街として発展しています。

板橋宿

板橋宿は中世以来の宿場で鎌倉幕府の奥州街道の宿だったこの地を新たに設置した中山道の宿場に切り換えました。
平尾の追分で川越街道を分岐させるとそこから宿が始まります。
平尾宿、中宿、上宿の三宿によって構成されました。
中山道は東海道に次いで通行量が多く川止めを嫌う荷物や旅人が利用しました。
また、信越、北陸からの玄関口としても知られました。
中宿に本陣や問屋場が置かれその中心をなしました。
上宿との境界を流れる石神井側には地名の起源となった板橋が架かっています。

明治になると宿の南に東海道本線と東北本線を結ぶ連絡線〈品川−赤羽〉の板場駅が設置されました。
山手線の池袋−田端間が開業すると、この線は赤羽線・埼京線と名をかえ、ややローカルな線となってしまいました。

今日の中山道はすぐ西に平行して作られた新道へうつり、その下に都営地下鉄が入り新板橋、板橋区役所前、板橋本町の三駅が設けられて旧道は商店街として繁栄しています。
また、別れた川越街道の次の宿が上板橋宿です。

内藤新宿

新宿は甲州街道の宿場として、元禄十一年設置された新しい宿です。
始め甲州街道の初宿は高井戸だったのですが、江戸から距離がありすぎるのでその中間に民間人の申請によって設置されました。
内藤家の屋敷地を開発したので、内藤新宿と呼ばれました。

下町・中町・上町で構成され上町内で甲州街道に当たる青梅街道(成木街道)を分けます。
その分岐点が新宿追分(伊勢丹前、追分交番がある)です。
江戸に近いので飯盛旅籠が多く宿というより歓楽街を形成していたようです。
参勤交代で通大名もわずか三家でしたが甲州は直轄領で重要性が高かったので五街道の一つとされてきました。

亨保〜明和の間 50年間宿を停止されたこともありました。

明治になると西側に新宿駅が設置され、さらにそこに甲武鉄道(中央線)が入り、小田急、京王、西武が次々と新宿駅を起点とすると町の中心は駅周辺へうつり、さらに淀橋浄水場が都庁となるとさらに西側にシフトしていっています。

旧宿場は四谷大木戸〜伊勢丹間で地下鉄丸ノ内線の新宿御苑前駅(大木戸口)〜新宿三丁目駅間のやや落ち着いたビル街を形成しています。

 

 

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